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2012年3月11日 (日)

震災から1年~その1

震災から1年経過しました。被災された方に心からお見舞いを申し上げます。
震災直後は、錯綜していてブログを書く余裕も無かったので、自分にあったことを書いておこうと思います。もし震災に遭遇した時に参考にしていただければ幸いです。

<緊急地震速報>
震災当時、私は市内ビルの12階会議室にいました。会議を運営していた側で、会議資料はもとより、進行台本までを前日までに作成した会議で、そろそろ終了。準備で疲れたし、金曜日だし、前日早朝にも地震があって睡眠不足だったので、早めに帰ってゆっくりしようと思っていました。
議長が「会議終了にあたり、質問・意見はありますでしょうか?」と行ったところで、館内のオルゴールみたいなものが鳴りました。しばらく間があった後、「緊急地震速報の時に鳴るものですよ」と行った瞬間から「ダダダダッ」っと、地鳴りがしてきた。

縦揺れが来た。次の瞬間、横揺れというか3Dの揺れ、感触として3~4mくらいの範囲で縦横無尽に動き回る。当然立っている事もできず、しゃがんで机の下に頭を隠すが、机が動いて、机の足を持って踏ん張って押さえる。全然収まる気配がない。古いビルで、バキバキ音がして歪んでいるのがわかる感じだったので、もしかしたら、ビルが倒壊するのではと思いながら、もしかしたらヤバイかもと、ちょっと不安になりました。
揺れは、本当に長い時間でした。実際には3~4分ということですが、体感的にはいつまでも収まらず、倍以上の時間揺れていたと感じました。

<初動>
揺れが収まりました。感覚的には揺れが続いている感じです。すぐにカバンとコートを取って、一番最初に会議室から飛び出しました。階段は混雑するだろうと思ったのですが、まだ出てきている人も少なく、12階から一気に1階まで駆け下りました。会社は近いのですが、片道3車線の道路を渡らなければなりません。信号は消灯、まだ渋滞にはならず車は走っています。
歩道側の道路に車がこない事を確認して横断歩道を渡り始めます。コートを脱いで横に大きく降りました。運転手も気づいてくれ止まってくれました。

道路を渡りきったところのマンションは上の階で煙が出ています。火事のようです。つい最近できたバス停のガラスは割れています。そろそろ会社到着する頃には、ビルの中にいた人が、どんどん外に出てきて、歩道が溢れ初めてきました。その時点で震源もわからなかったのですが、宮城県内が同じ事になっていると想像しながら、後ろ髪をひかれながら会社に戻りました。

会社の自室に戻ったら、書棚のほとんどの扉が開いて書類が飛び散っています。自席に戻ると、近くのテレビでは「大津波警報」、「震源6強(当初)」、「震源は宮城県沖」、これが宮城県沖地震?一昨年に震度6強があったので、自分としては、あれが宮城県沖地震だと密かに信じていたのだか、見事に外れてしまったようです。

とりあえず、業務分担だけ決め、インフラをチェック、電気は自家発電装置、ネットワークはNG、外線電話はNGだが、内線電話はOKという状況だった。
長期戦になりそうだったので、近くにいたスタッフ2人に1万円を渡して、隣のコンビニで飲料水、食料の調達をお願いする。確かに買ってきてくれたのだか合計3000円弱。買えるだけ買ってきてと頼むんだったと後悔する。一方で、これくらいの食料であれば、一晩乗りきれると思ってしまった。一晩経てば、解消すると思っていたけど、甘かった
案の定、買ってきた食料はすぐに底をつき、コンビニも閉店、会社からの食料配給はあったが、当初は限られたものでした。

余震は、数分おきに震度3~5程度の余震が来る。いいかげんにしろと思いつつも、仕事に集中しました。周りでは、余震で書棚の扉が開いて、また書類が落ちてくるのを防ぐため、扉にガムテープを張って、開かないように処置しています。一方で、机の下に隠れて震えている人、それを介抱する人もいます。とにかく、その場にいる人が帰宅することもせず、自分のできる事をできる限りやっていると感じた瞬間でした。

徐々に被害状況がわかってきて、テレビでは押し寄せる津波が映しだされている。地獄絵図そのものだったと思います。19時前になって、やっとネットワークが通じた。基幹ネットワークは生きていたのだが、事務系のパソコンやハブは自家発負荷になっていなかったため、ネットワーク室から、直接LANケーブルを張って開通し、そこからはひたすら情報発信、、、

<バックグラウンド>
まだ、この時点で家族についての消息は不明。夜になってXからメールが来た。その頃は、私も家族もソフトバング同士だったのと、キャリアのトラフィックが少なかったのが功を奏したようである。近くの小学校の体育館に避難しているとのこと。自宅の隣近所と一緒で、自宅から持ち寄った食料でなんとか凌いでいるとのこと。とりあえず、家族全員の無事、また実家とも連絡がついて両親の無事が確認でき、バックグラウンドは確保した。
一方、石巻方面に出張しても連絡がつかない同僚がいたり、家族の安否を確認できなくても悶々と仕事をしている人がいるため、自分だけ喜んでいるわけにはいかなかった。

<震災の夜>
自分はやることが多すぎて寝ているヒマはありませんでした。同じ職場の女性スタッフは、全員会社に宿泊しました。特にベットや布団など用意していませんので、寝袋で床に寝ています。一人暮らしだと、自宅に戻っても停電しているし、物騒になっている可能性もあるため、職場にいたほうが安全だろうという配慮です。
一方で、同僚は夜中の間、燃料を買い求めたり、石巻市までの道を探したりと、必死でした。自分はテレビに映し出される気仙沼の町中の火災を見ながら、この街は大丈夫なのだろうかと不安になっていました。

(その2に続く)

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